2021-03-25 第204回国会 参議院 農林水産委員会 第5号
昔、シベリア出兵、日本行きました。何しに行ったのですかって誰も知らないという年代になってきましたけど、あれもシベリアの木材を確保しに日本が乗り込んでいったわけですよ。 そういうことから、ただ単に国際協力できるというふうには思いません。なぜかというと、今も認証されていない不法伐採の木材は、ほとんどがテロ組織の資金源になっている可能性もあると言われています。
昔、シベリア出兵、日本行きました。何しに行ったのですかって誰も知らないという年代になってきましたけど、あれもシベリアの木材を確保しに日本が乗り込んでいったわけですよ。 そういうことから、ただ単に国際協力できるというふうには思いません。なぜかというと、今も認証されていない不法伐採の木材は、ほとんどがテロ組織の資金源になっている可能性もあると言われています。
シベリア出兵なんかだと、これは邦人というよりはチェコ軍団の救出ということでしたけれども、シベリア出兵なんかでもやっぱりそういう救出ということが最初に挙げられていたわけですし、田中義一内閣のときの山東出兵なんかの場合は日本人居留民の保護が目的とされていたわけですよね。その結果、シベリア出兵は七万人も送り込んでいるわけですよね。
その後、日清戦争、義和団事件、日露戦争、韓国併合、第一次世界大戦、シベリア出兵、山東出兵、満州事変、日華事変からアジア太平洋戦争に至る正に戦争に明け暮れる六十年間であったと言っても過言ではございません。 この六十年間で戦争犠牲者の数は爆発的に増加しています。一八八五年、明治十八年には二千六百五十八人であった旧軍人遺族恩給の受給者は、六十年後の一九四五年には約百万人に達しているのであります。
それについての総理の御認識と、私は、また、最後にお伺いをしたいのは、自衛隊を派遣した最高責任者として、私たちがこれまでの日中戦争やあるいは太平洋戦争、シベリア出兵の歴史に学ぶのであれば、総理としては常に常にこの自衛隊の撤兵のタイミングと条件については心しなければいけない、そうでなければ、ずるずると日本がアメリカ軍と一緒になって戦闘行為に加担をしてしまう、こういうふうに思いますが、最後に総理の御見解をお
私の父親の時代、私の父親はシベリア出兵行って全身凍傷して帰ってきた。しかし、父親はそんなことを子供には話、せぬですよね。私も実は子供に、自分は戦争の、負けて二年間満州おったときの苦しい話、しないんですよね。親というものはなかなかしにくいんです。 しかし、学校ではそれを教えられると思うんですね。
先般、シベリア出兵の御議論もございましたけれども、そういうことで出しておるわけでは全くございませんで、もちろん吉岡先生、そういう観点から御質問なさったとは理解をしておるわけではございませんけれども、私はやっぱりそういうような最も望ましい状況というものに近づく、つまり自衛隊がいなくても十分できるということになれば、それはなるたけ早期にイラクの派遣というものが終わるべきである、そういうことが一日も早く実現
特に後藤田副総裁は、シベリア出兵の際、撤兵の時期を誤ったことがどんなに深刻な問題だったかということを提起しておられました。 政府として、今自衛隊の撤兵、撤退という問題はどのようにお考えになっているか、全く検討外なのか、幾らかはいろいろな事態を想定した検討を行われているか、防衛庁長官、お伺いします。
○吉岡吉典君 私は、シベリア出兵をどのようにここで考えるかということを論議しようとは思いません。私が言いたかったのは、撤兵の時期を失ったと、それを誤ったということを問題にしたいということです。 シベリア出兵問題がどんな問題だったかについては、外務省監修の「日本外交百年小史」という中でもきちっと書かれて、その中でも、撤兵の機会を失ったためにどんなひどい事態になったかということが書かれております。
シベリア出兵との対比の御言及がございましたが、私はシベリア出兵とは基本的に異なると思っております。これはもう歴史について御造詣の深い先生がよく御案内のことかと思いますが、今回は人道支援を中心に安全確保支援活動も行うということでございます。それは基本的にシベリア出兵とは構造が違う。そして、シベリア出兵の際に、確かに日本が、ほかの国が撤収をしたのにしなかった。
いわゆる兵というのは、出すときはもう大変ですけれども、撤退が余計難しいということは昔からある話でございまして、シベリア出兵の時代からそうだったそうでございます。そうすると、そうなってくると、今の読みでいきますと、マーケットにも相当影響を与えるだろうというふうに思うわけでございますので。
ですから、外交史をひもといてみますと、一九一八年から二二年まで四年、シベリア出兵をやりましたけれども、そのときもさんざんバルチザンに痛め付けられまして、結局撤兵した原敬内閣。後藤新平外務大臣のときだったと思いますが、軍の田中義一さんやなんかの行け行けどんどんをようやく収拾して、アメリカは二年で撤退してしまいましたから、その後ようやく収拾したんですけれども、尼港事件の後ですね。
当時、大正年代でありますけれども、二、三歳の少女だった方が、日本のシベリア出兵でこれが解放されて、当時、大正天皇の時代でありますけれども、数百人、日本を経由してポーランドに帰還した。そのことが、天皇陛下がポーランドを訪問されたときに、生き証人がおばあちゃんとなっていたということで、連日ポーランドでテレビ放送されて、日本の関心が高まった。
ちょっと私は金曜日の日もお話ししたんですけれども、私の父親はシベリア出兵へ行っておった。四年間やったんですけれども、初めから合計でいくと。一番厳しい二年間おりまして、全身凍傷で帰ったんだけれども、これは撤兵の指示が遅れたんだ。外国はどんどん要領よく、もうイギリスは真っ先に帰っていくしね、アメリカもちょっとおったけれども帰っていくし。もう日本だけひどい目に、おった、最後まで。
シベリア出兵というのはどんなことかと聞いたら、ほとんどの人が分からない。私も実は余りよく知らなかったんだけれども、今度この問題が出たものだから調べてみました。大変困難な状況だったですよね。 第一次大戦で連合軍というのと同盟国というのがあった。その戦いを行った。日本もそれに最後は参戦したんですよね。それで、終わってからシベリア出兵、日本しているんです。そのときに随分いろんな経過があるんですよ。
○国務大臣(川口順子君) そのときにどういう言葉で言われたかということについてちょっと私はつまびらかにいたしておりませんけれども、シベリア出兵とか、そういう言い方もしていたかというふうに思います。
シベリア出兵を長く続けざるを得ない状態になってみたりしていますし、あるいは山県有朋との、別に原さんが山県さんが好きだとは思わないけれども、本当に綿密な協議を遂げているなんというのは、原さんという人は苦労したんだなという気がするんです。 ああいう権力の分散が元首たる天皇の絶対権力の下にあったという、そういうことは明治憲法は初めから予想していたものなんでしょうか。
皆さん、あっけにとられておられましたので、私が手を挙げて、実は一九一七年にロシア革命が起こりました、そのときに、どんどんシベリアに赤軍が出てきて、それに対して五カ国がシベリア出兵をやってその赤軍の拡張を防ごうではないか、日本に一万五千人の兵隊を近いから派遣してくれと要求されて、イルクーツクに本部を置いて、二年八カ月という間シベリア出兵をやりました。
これは私、この間ひっくり返して読んでいたら、尾崎咢堂が、大正十四年ですか、国会の質問の中で、軍がどんなに軍事機密費を使ったかという大演説をやっている中で、例えばシベリア出兵でも二千万円の機密費がシベリアの無人の地に使われて、捨てられてしまったと同じになったと言っているんですね。二千万円というと大体五百億ですね、今の換算でいうと。そんな軍事費を使いながら戦前はやっていたわけですね。
例えば、一九一八年のシベリア出兵に際しては軍需工業動員法が作られ、一九三八年、中国への全面侵略を進めるためには国家総動員法が作られました。この歴史の教訓にこそ学ぶべきではありませんか。 今、世界では日本国憲法第九条にノーベル平和賞を贈ろうという運動すら起こっています。なぜこの憲法九条を堂々と掲げて平和の外交を推し進めようとしないのですか。総理の答弁を求めます。
例えば一九二〇年の三月のシベリア出兵に関連して、日本軍が邦人救出後百二十二人の犠牲者を出したニコラエフクス事件などが代表的な事件だと言われております。率直に言って、下手に軍隊が出ていけば、邦人の保護は保護でなくて、救援が救援でなくなってしまう、これは実は戦史の教えるところであります。 憲法第十二条は、個人の尊重、生命、自由幸福追求の権利の尊重ということを規定しています。
第一次大戦のときにいわゆるシベリア出兵が行われますが、これも結局は共産主義というものがアジアに来ること、これを何とか防ごうという気持ちが日本に強くあったわけでございます。
在外居留民の保護、シベリア出兵のときもそうですし、生命、財産の安全、これ山東出兵のときもそうだし、居留民の生命、財産、それの保護、上海事件、盧溝橋事件、みんなそうです。これが口実になって軍隊が出たんです。
今回は今大臣の御答弁の中にありましたように正式にはそういう話はなかったということでございますが、これは大臣のお考え方を承りたいと思いますが、シベリア出兵などを通じて日本が過去においてソビエトに迷惑をかけたということもある、こういう認識はお持ちになっているか、そのことだけちょっと伺いたいと思います。